三陸紀行・・・その4>>東日本大震災遺構・伝承館@気仙沼
2019年 06月 08日
瓦礫は撤去されたけれど、この地区に戻って住む選択をされる方が、どれくらいいらっしゃるのだろう。
ガイドツアー形式での見学は、映像や画像による導入に始まり、津波が襲って来たそのままの状態で保存されている教室や廊下、施設などを丁寧に見て回り、伝承館に戻って映像を見る。という流れ。
同じ国に住む民として、ほんのわずかであっても共有できる感情と情報を求めて。
逃げれば助かることを、知る。学ぶ。伝える。
有事に祭して生き残るすべを得とくしておくことこそが、地震国に住む私たちの使命だ。
1995年、私が神戸で学び、感じたこと。
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館は、将来にわたり震災の記憶と教訓を伝え、警鐘を鳴らし続ける「目に見える証」として活用し、気仙沼市が目指す「津波死ゼロのまちづくり」に寄与することを目的としています。
011年3月11日。
あの日は午前授業でしたが、部活や補習授業などでほとんどの生徒が校内に残っていました。
私も学校に残り、学年最後だからとクラスの皆と鍋パーティーをしていました。
自由解散だったので、午後2時半過ぎ、そろそろ帰ろうと友達と一緒に校舎を出ました。
緊急地震速報が鳴ったのは、そのすぐ後です。
あの時は誤報も多く、小さな地震でも速報が鳴っていたので、今回もどうせ誤報だろうと思い込んでいました。
けれど、起きたのは立っていられない程の大きな揺れ。
近くに停まっていた車は生きているかのように飛び跳ね、慌ててしゃがみこんだ地面はすぐに地割れを起こしました。
揺れがおさまったとき、真っ先に聞こえたのは「逃げろ!!」という先生の声でした。
校内に残っていた生徒は迷うことなく正門へ向けて走り、点呼を取りながら地福寺、陸前階上駅、階上中学校へと高台に避難しました。
その途中に振り返って見た沿岸に生える樹木を遥かに越える真っ黒な津波は今でも忘れられません。
学校は海岸から約500mの場所に建っていましたが、先生の素早い判断のおかげで、校内に残っていた生徒は全員無事でした。
それから、電気水道が回復し、向洋高校の三科それぞれが、市内の高校三校に分散して授業を行っていた頃。
一度だけ、被災した向洋高校に行ったことがあります。
どういう状況なのか、知りたかったからです。
実際に行ってみると、がれきだらけであまり近づくことはできませんでした。
ただ分かったのは、せっかく新しく工事していた校舎がめちゃくちゃになってしまったことと、
校庭に建てられたプレハブ校舎が跡形もなく消えていたことでした。
実は、入学してすぐ校舎の工事が決まったので、本校舎で授業を受けた回数は少なく、主に学校生活を送っていたのはプレハブ校舎でし。
思い出深いプレハブ校舎が跡形もないことがとても悲しかったのを覚えています。
三校に分散後は、気仙沼高等学校の第二グラウンドにプレハブ校舎を建て、そこで卒業までを過ごしました。
現在は、旧校舎から2キロ程離れた場所に建てられた新校舎で授業が再開されています。あ
初めに言った通り今なお震災の爪痕が残る旧向洋高校の校舎は明日から一般公開されます。
明後日で、東日本大震災から8年。
時間が経つにつれて、記憶が薄れていくのは当たり前ですが、もう一度あの時の状況を胸に刻むためにも多くの方々に見ていただきたいです。
校舎内は、ほとんど当時のまま残っています。
4階まで押し寄せた津波の跡も、
教室に流れ着きひっくり返った車も、
骨組みがむき出しになった教室の天井も、
床に散らばる教科書や上靴も全て、あれから変わっていません。
先日、旧向洋高校に行く機会がありました。
特別に中を見せていただきましたが、懐かしい気持ちと共に、当時を思い出して涙がこみ上げてきました。